
金上盛備(かながみ もりはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将であり、金上氏の第15代当主です。彼は1527年に生まれ、1589年に亡くなりました。金上氏は蘆名氏と同じ桓武平氏三浦氏の流れを汲む一族で、盛備は越後国蒲原郡の津川城を拠点としていました。
生涯と業績
金上盛備は、父である金上盛信の後を継ぎ、津川城主としての地位を確立しました。彼はその卓越した政治手腕から「蘆名の首席執政」と称され、蘆名氏の家中で重要な役割を果たしました。特に、1578年の御館の乱では、上杉景虎方を支援し、蒲原安田城を攻撃して成功を収めました。
1581年には新発田重家の乱においても活躍し、上洛の際には従五位下、遠江守に任命され、織田信長に拝謁する機会を得ました。この際、蘆名盛隆が信長から「盛隆は三浦家の棟梁」と認められる手助けをしました。
しかし、1586年に蘆名亀王丸が死去すると、家中は後継者を巡って混乱し、盛備は佐竹氏から結城義広を迎えることを強制しました。この決定は、家臣団の分裂を招き、蘆名氏の力を弱める結果となりました。
最期
盛備は1589年の摺上原の戦いで戦死しました。この戦いでは、家臣団の分裂が影響し、蘆名軍は劣勢に立たされました。盛備は前線で奮闘しましたが、最終的には伊達軍の攻撃を受けて命を落としました。享年63歳でした。
金上盛備の生涯は、戦国時代の複雑な政治状況と家族間の権力闘争を反映しており、彼の業績は蘆名氏の歴史において重要な位置を占めています。
金上盛備
⇒【こちらのページに移転しました。】

⇒【拡大して読む(詳細はこちらへ!)】






