
小川長資(おがわ ながすけ)は、戦国時代の越後国の国人領主であり、本庄時長の子です。彼は同族の小川長基の養子となり、初めは兄の本庄房長と共に越後守護の上杉定実に仕えていました。しかし、房長が対立する中条藤資と共に挙兵した際、長資は房長が留守の間に本庄城を占拠しました。この結果、房長は急死し、長資は房長の嫡男である千代猪丸(後の本庄繁長)の後見人として実権を握ることになります。
その後、長資は長尾景虎(後の上杉謙信)を擁立する動きに加わりますが、景虎が当主となると、長資は繁長を軽視し始めました。繁長は父の死の原因を作った長資に対して深い恨みを抱いており、天文20年(1551年)、繁長は13歳で長資を切腹させることに成功します。この事件により、小川家は滅亡したと考えられていますが、長資の家臣の中にはその後本庄家に取り込まれた者もいたようです。
小川長資の生涯は、家族間の権力闘争や裏切り、そして最終的な悲劇的な結末を象徴するものであり、彼の行動は越後の歴史において重要な影響を与えました。
小川長資
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