
大沢基胤についての詳細
大沢基胤(おおさわ もとたね)は、1535年に生まれ、江戸時代初期まで活躍した戦国時代の武将です。主に今川氏と徳川氏に仕官し、遠江の堀江城の城主として知られています。彼は名門大沢氏の一員であり、代々この地域を治めてきました。
生涯と活動
基胤は、天文4年に生まれ、父は大沢基相(もとすけ)です。基胤は今川義元に仕官し、その後、徳川家康にも仕えました。彼は「官位は左衛門佐を賜る」などの功績を残しました。特に1569年、家康の攻撃に対して堀江城を防衛したものの、最終的に降伏を選びました。降伏後も彼は徳川家に仕え、武田信玄の攻撃を防ぐ功績を上げています。
終焉と遺志
大沢基胤は、1605年に亡くなりましたが、戦後も彼の息子である基宿(もといえ)は続いて幕府の旗本として活躍しました。基胤の家系は、その後も明治時代まで続き、堀江藩として名を残しました。また、基胤の治世下での堀江城の発展は、今でも地元の文化に影響を及ぼしています。
彼の人生は、戦国時代の日本における武士の忠誠心や、戦における策略を象徴するものでもあります。
大沢基胤は、1569年に家康に降伏する際、今川氏真に許可を求めたという重要なエピソードがあります。彼は、「ここまで奮戦してきたが、もはや耐えきれない状況となった。城を枕に討死することも考えたが、これは誠の忠義ではないと思う」と述べ、氏真からの返事を待ちました。氏真は彼の降伏を許可し、これまでの忠義に感謝の意を表しています。
また、大沢基胤の家系は、彼の降伏後も重要な役割を果たしました。基胤の孫は持明院基定となり、その後の子孫が高野保春や四辻実長を経て、最終的に正親町雅子に到達します。正親町雅子は仁孝天皇に嫁ぎ、明治天皇を産むため、基胤の血筋から現代の天皇までつながる系譜が形成されています。こうした系譜は、歴史的にも大きな意義を持つものであり、基胤の影響は長きにわたって続いていることがわかります。
大沢基胤
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