
大崎義隆について
大崎義隆(おおさき よしたか)は、日本の戦国時代において、陸奥国の大崎地方を拠点とした戦国大名である。彼は大崎義直の子として1548年に生まれ、奥州探題大崎氏の最後の当主として知られている。義隆は、永禄10年(1567年)頃から天正18年(1590年)までの期間に大崎氏の第12代当主を務めた。
生涯と業績
大崎家は清和源氏の一派、河内源氏の流れを汲む名門であり、義隆はその名門の出身である。南北朝時代には奥州管領として赴任した斯波氏の後裔とも言われ、家族としての歴史が深い。
義隆は、特に伊達政宗と関係が深かった。彼は一時期、政宗の軍を退けることにも成功したが、その後、政宗傘下に入ることになった。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため、最終的に改易され、そして上杉景勝に仕えることになった。
戦歴
彼は、戦国時代の武将として多くの戦に参加した。特に有名なのは、1588年に起こった大崎合戦であり、これは伊達政宗軍と大崎義隆・最上義光連合軍との闘いであった。この戦いでは、義隆の軍勢は伊達軍に対抗したが、戦局は厳しいものであった。
最後の時期
義隆の晩年は、国内の反乱や他勢力との関係に悩まされることが多かった。彼の統治下での大崎氏は次第に力を失い、最終的にはその動向が他の大名の影響を受けるようになった。義隆は1603年に没したとされ、その後の大崎氏は続く家系の中で苦境に立たされることとなる。
大崎義隆の父は大崎義直であり、義隆には兄弟として黒川義康や妹の釈妙英がおり、釈妙英は最上義光の正室であった。また、義隆は家臣や周辺大名との外交についても積極的であり、特に最上家との婚姻関係を築くことで安定を図ったことが注目される。
義隆は、大崎合戦に至るまで伊達家との友好を重視しつつも、敵対する葛西家との関係に苦慮していた。大崎合戦では、一時的に伊達軍を退けた後も、最終的に政治的な圧力や豊臣秀吉の時代の影響で、彼の立場は次第に弱体化していった。特に、天正18年の奥州仕置後には、義隆の領地は伊達政宗に与えられ、義隆自身は浪人の身となった。
彼の死後については、遺族や旧臣が最上義光の元で生き延びた可能性があり、義隆の名前が最上家の分限帳に見られる記録から、義隆が生き延びていた可能性も指摘されている。
大崎義隆
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