
江上武種について
江上武種(えがみたけたね)は、戦国時代の武将で、少弐氏および後に龍造寺氏の家臣として活躍しました。江上氏の15代当主でもあり、肥前国出身です。
生涯の概要
江上武種の正確な生年および没年は不明ですが、彼は少弐家の家臣として戦い、後に龍造寺隆信の家臣となりました。特に、彼は肥前勢福寺城の城主であり、龍造寺隆信の家督相続に反対した「東肥前十九将」の一人として知られています。また、彼は龍造寺家臣の小田政光を討ち取り、その軍事的才能を証明しました。
歴史的重要性
江上氏は、元寇での功績によって肥前の神埼荘の地頭職を与えられるなど、九州の歴史において重要な役割を果たしてきました。江上武種が歴史に本格的に姿を現したのは、彼の先祖である氏種がこのような地位を得た時期です。
彼の活動は、戦国時代の複雑な政治状況と武士の忠誠心の変遷を理解する上で重要な例を提供しています。江上武種のように、地域の権力構造に影響を与えた武将は多く、彼の存在は九州地方の戦国期の動向を知る手掛かりとなります。
江上武種は、天文24年(1555年)に勢福寺城が龍造寺隆信の軍勢に攻められた際、やむを得ず仁比山へ退き、その後は城原城に拠ることとなりました。その後、永禄元年(1558年)には隆信との間で和睦が成立したものの、翌年には約定を破り攻撃を受け、武種は筑後国へ逃れました。その後、彼は隆信と再度和睦し、勢福寺城へ戻ったのち、龍造寺氏の一員として神代氏攻めなどに参加しました。
また、彼の生涯の後半では、大友氏に与しながらも、その後は再び隆造寺党に降るなど、波乱万丈の人生が続きました。このように江上武種の動向は、彼の地域における権力闘争の複雑さを反映しており、彼の行動は戦国時代の武士としての生き方を顕著に示しています。最終的に、江上氏は龍造寺家種を養子に迎え、その後は龍造寺氏の指揮の下で活躍することとなりました。
江上武種
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