
猪苗代盛国の生涯
猪苗代盛国(いなわしろ もりくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、蘆名氏の家臣である。彼は猪苗代氏の12代当主であり、天文5年(1536年)に生まれた。その父は、蘆名盛詮の次男であるとされる猪苗代盛清だが、一部では天文10年(1541年)に蘆名氏に対して謀反を起こした猪苗代盛頼も父として言及されることがある。
主君と家族
盛国は、はじめ蘆名盛氏に仕官し、1565年に元服の際に彼の偏諱を受けて盛国と名乗った。天正13年(1585年)には嫡男・盛胤に家督を譲り隠居したが、その後、後妻の子である宗国を溺愛し、盛胤を廃嫡しようと画策した。このことが、盛国と盛胤の間で激しい対立を生む原因となった。
政治的動向
天正16年(1588年)には盛胤を排除し、猪苗代城を伊達政宗に寝返らせた。これにより、摺上原の戦いにおいて蘆名氏が惨敗する一因ともなった。天正17年(1589年)には伊達政宗から500貫文の地を加増され、伊達氏の準一門に列せられたが、後に知行半分を削減されることとなった。
子孫と遺産
盛国の次男は、松王丸、平太郎、弾正を称し、政宗から一字を賜り越後宗国と名乗った。彼の子孫は代々伊達家の家臣として続き、明治維新に至った。彼の弟・縫殿盛明も盛国から200石を与えられ別家を立てたが、一代で絶えた。
このように、猪苗代盛国は時代の激動の中で、家族間の争いや政治的暗闘の中で大きな役割を果たした武将であった。
盛国の嫡男・盛胤は、父の後を継いで家督を受け継いだ後、1589年の摺上原の戦いで父とは異なり、蘆名側として伊達軍に対抗した。しかし、この戦闘で彼は敗北し、主君である盛重に従って常陸に逃れることとなった。最終的には故郷の猪苗代に戻り、1641年に死去した。盛胤の墓が福島県耶麻郡猪苗代町内野に残されていることも、彼の存在を示している。
また、盛国の政治的動向について深掘りすると、彼が伊達政宗に寝返った背景には、当時の政治状況や勢力の変動があった。盛国が伊達氏に与したことで、彼自身の勢力がどのように変化したかが興味深い点である。彼は伊達氏の準一門に列せられて以降も、政治的な影響力を維持しようとしたが、知行の削減によってその力は制限された。これは、戦国時代における武将の運命が、忠誠心や家族内争いや、他勢力との関係にどれほど大きく影響されたかを示す重要な一例である。
猪苗代盛国
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