
伊王野資信(いおうの すけのぶ)は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将で、那須氏の家臣です。彼は伊王野氏の20代当主であり、下野国伊王野城を拠点として活動していました。
資信は、その父である伊王野資宗と共に戦い、地域の勢力を拡大しました。彼は、那須、大関、大田原、芦野、千本、福原とともに「那須七騎」と呼ばれる武将の一人に数えられ、特にその戦闘力が評価されています。
また、資信は官位として下総守を持ち、戦時において重要な役割を果たしました。彼の最盛期には、1万3千石の領地を有していました。このような背景から、彼は地域の政治や軍事において重要な人物として知られています。
戦国時代の興亡の中で、伊王野資信はその一族の歴史にも深く関与し、特に那須氏との関係が大きかったとされています。戦国時代の混乱の中で、彼とその家族は何度も権力の移り変わりに直面しながらも、家名を保ち続けました。彼の子孫の中には、後に別の藩に仕官した者も多く、江戸時代においてもその名は引き継がれていきました。
資信は、天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いでは宇都宮方に与し、天正18年(1590年)の小田原征伐においては遅参したものの、彼の本領である伊王野740石は安堵されました。さらに、文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では加藤清正の軍に属し、蔚山の戦いでの貢献により、清正や浅野長政から賞賛を受けたと言われています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには東軍に属し、特に上杉景勝に備えて、戦後には2000石の加増を受けて、合計で2740石になりました。しかし、戦傷により長男である資重が病死したため、次男の資友が家を継承しました。これらの戦いと彼の官位の変遷は、資信の評価を高める要因となっています。
伊王野資信
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