
天草久種(あまくさ ひさたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した日本の武将であり、キリシタンとしても知られています。彼は肥後国河内浦城の城主で、天草氏の重要な人物の一人です。
久種は、父親である天草ミゲル(鎮尚)から強いキリシタンの信仰を受け継ぎました。元亀2(1571)年に洗礼を受け、キリシタン名は「ジョアン」と称されました。彼は天正19(1591)年に自領にコレジョ(宣教師による学校)を誘致するなど、キリシタン文化を推進しました。
1582年には家督を相続し、第15代天草氏当主となります。彼は島津家に臣従し、大友氏と戦う中で重要な役割を果たしました。関ヶ原の戦い(1600年)では、小西家が改易されると、久種は禄を失い天草を去ることになります。
彼の活躍は、当時の日本におけるキリシタンの影響や信仰の広がりを反映しており、天草久種は日本の歴史においても特異な存在となっています。
久種は、特に天正の天草合戦(1589年)において有名です。この戦いでは、彼を含む天草五人衆が小西行長に抵抗するために反乱を起こしましたが、最終的には小西と加藤清正の連合軍によって鎮圧されました。この反乱は、久種が小西行長の命令に従わない姿勢を示すものであり、彼の立場の難しさや当時の地方権力のダイナミクスを反映しています。
また、久種は当時の日本におけるキリシタン文化の保護者でもあり、彼の施策によって天草地域では印刷文化が発展しました。特に「天草版」と呼ばれるイエズス会が発行した書籍が多数出版され、地域の教育や文化的発展に寄与しました。
さらに、久種の死は慶長6年(1601年)頃と見られていますが、その具体的な状況については明らかにされていない部分も多いです。彼の家系はその後も存続し、例えば甥の新助は肥後細川氏に仕官して生き延びました。
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