
山科言継について
山科言継(やましな ときつぐ)は、戦国時代の公卿であり、主に朝廷の財政支援に奔走した人物として知られています。彼は1507年に生まれ、1579年に亡くなりました。父は公卿の山科言綱であり、母は女嬬と呼ばれる宮中に仕える身分の低い女性でした。言継は、山科家の名を受け継ぎ、内蔵頭として朝廷財政の責任者として活動しました。
彼の活動と影響
言継は、内蔵寮の長官を務め、朝廷の財政改善を図るため、多くの戦国大名との交渉を重ねました。特に、織田信秀や今川義元などとの友好関係を築き、献金を得るために奔走したことが知られています。具体的には、信秀に和歌や蹴鞠を教えることにより、信頼関係を深め、後の献金を得る基盤を築きました。
また、戦国大名が持つ影響力を利用して、朝廷を支えるための財政援助を受けることに成功しました。特に、彼の手腕によって、財政が逼迫していた時期にもかかわらず、朝廷の存続を確保する叶ったのです。
著作と遺産
言継は著名な日記『言継卿記』の著者でもあります。この日記は1527年から1576年にかけて記され、当時の公家や大名の動向が詳細に残されています。特に、医療に関する記録を含むことから、現存する日本最古の診療録とも言われています。
晩年
晩年には権大納言に昇進し、信長との交渉役としても活動しました。これは、信長の二条御所築城視察の際にも山科邸を訪問させるほどの関係を築いていたことを示しています。
言継の功績は、戦国期の公家社会において特に重要なものであり、彼の人脈作りや政治的手腕は、当時の混乱した時代の中で朝廷の維持に大きく寄与しました。死後300年以上経った大正4年には、朝廷のために力を尽くした功績により、従一位の贈位を受けています。
彼はまた、1548年には室町幕府による自らの家領である山科荘の横領という危機に直面しましたが、近衛稙家の助けを得ることで、その命令を取り消させることに成功しました。このように、言継は人脈を用いて自己の地位を守る才能も持ち合わせていたのです。
医業にも関与しており、彼は近隣の庶民に対して診療を行うこともありましたが、その医療知識は専門的ではなく、重大な病気には専門の医師に依頼していたと考えられています。この点からも、彼は多彩な才能を持つ一方で、医療についての限界もあったことが窺えます。
言継の業績の一つとして、歌や音楽に加えて、庶民文化にも貢献していたことが注目されます。特に、町衆の音楽や舞踊の指導を通じて、非公家の文化にも大きな影響を与えました。彼の生涯は、単なる公家の範疇を超え、広い範囲での人々との交流が伺えます。
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